朝起きてみて驚いた。声が出ないのだ。すぐに病院で診てもらえばよいものを、様子を見ようと一日我慢した。だが、症状はひどくなるばかり。諦めて近所の耳鼻咽喉科に行くと、喉と声帯が真っ赤になっていると言われ、抗生剤を処方された。楽しみにしていた同僚とのワインバーでの飲酒も禁じられた。血管が膨張して炎症がひどくなるのだそうだ。「できるだけ声を出さないように! 声帯が傷つきますから」と忠告された。
抗生剤を飲み始めたが、すぐに効くわけもなく、日々の授業をこなすのに大層困った。喉から振り絞る声が、干された沼地のひび割れの間から漏れ出るような、高音と低音が掠れて入り混じった声になるのだ。マイクを使うと、「余計に分からない」と言われたりした。ものを言うたびに喉に痛みが走り、赤い引っ掻き傷ができるのが瞼に浮かぶ。声を失った教員は、“鳴かないホトトギス”より値打ちがないように思えてくる。
あの日以来、声を惜しみ、知人の留守録にも答えず、一滴のアルコールも口にしないで、ひたすら数種類の薬の服用とうがいを心がけ、体力を補うべく睡眠を貪っているのだが、幾日経っても声帯に改善の兆しはない。しかし、言葉を奪われた分、思考がひとり歩きを始めたのは良いことなのかもしれない。慌てることはない。いつかは声帯の炎症もとれるだろう。それなら今のうちに、この経験を心に刻み付けておこう。ようやく、そんなふうに思えるようになった。(池内 武)
声帯炎と私