ツールド103を完走しました!

サイクリングをコロナ禍下での有効なアウトドアトレーニングと捉えて以来、それ以前の10年あまりは年間せいぜい数回の「出撃」だったものが徐々にハマり、2020年には8回、2021年には10回、2022年には25回の出撃回数に達しています。1回あたりの走行距離も徐々に伸びて、2022年の1回での最長走行距離は80km、平均走行距離は60kmとなっています。ここに至り(腰痛持ちの)当方は、サイクリングを以後の人生の「生涯スポーツ」として位置づけ、健康維持・増進を図るとともに、可能な範囲で「小さな挑戦」を行っていくつもりでおります。

そこで、今年は、この20年間未到達であった100kmを超える距離をこなせるようになるべく、ツールド103(とうさん)にエントリーしました。ツールド103は「レース」ではなく、信号待ちや徐行などの交通ルールを遵守し、サポートライダーに速度を合わせた8名での集団走行により、5箇所のエイドステーションを経由してゴールに至る「イベント」です。100kmは、30代までのトライアスロンの練習をしていた時期はフツーにこなせていた距離ですが、現在は、その頃のことが「実は夢だった?」と思われるほど、イチから積み上げている過程にあります。それで、田村浩「自転車で100kmをラクに走る」(技術評論社)を熟読し、さまざまなノウハウや考え方を思い起こしながら、事前準備を3月頃から行っていきました。

2023年シーズンイン後、5月14日のイベント当日までには6回ほど出撃の機会がありました。走行距離を20kmから始めて、40km、60km、80kmと伸ばしていくのはもちろんですが、それとともに大切なのがコースの熟知です。ツールド103では、①国道377号線で三宝寺(29km地点)から大坂峠に至る約6km、②県道2号線で五名ダム(39km地点)から日下峠に至る約3km、③県道135号線で鴨庄(63km地点)からさぬきワイナリーに至る約3km、④県道136号線で小田(73km地点)から志度カントリークラブに至る約3kmがコース中の難所であり、これらをへたらずに無事通過することが完走のために重要です。そこで、事前の出撃ではこれらを別々に体験し、それぞれ登れることは確かめました。しかし、通しでの体験はついにできず、当日はこれらを連続してトライすることになるわけで、後になるほど疲労が溜まり、キツくなっていくのは容易に想像できますね。

いよいよ当日です。3日前から調整を意識し、久々にカーボローディングも行いました。早朝に登録を行い、小雨の降る中、グループ単位でスタートしたのですが、当方の所属するグループのサポートライダーは30km/h程度で巡航するので、普段25km/h程度の当方は、それに付いていくのがかなりしんどく、第1エイドステーション(福栄小学校前)に着く前に相当体力を削られました。そして、難所①をほうほうの体でパスして、第2エイドステーション(五名活性化センター)に辿り着いた直後は、そこで供される「そぼろ飯」を受け付けられないほど衰弱してしまい、リタイアを考えるほどでした。

次の難所②をなんとかこなして、長い下り坂を慎重に下れば、しばらくは平地となります。ありがたいことにだいぶ回復した状態で第3エイドステーション(タイレル)に到着し、ここで「プリン」をいただきます。そして、難所③に挑む途中、空腹を自覚し、そろそろグリコーゲンが切れる頃と感じました。それで、第4エイドステーション(さぬきワイナリー)では「うどん」を補給して、終盤にかけてハンガーノックに陥らないように備えました。

ここに至るまでは快晴であったのですが、そろそろ雲行きが怪しくなってきました。すでに当方は、当初のグループから脱落して単独行となり、後のグループが追いついて来たら、それに合流することになるのですが、これがなかなかやってきません。後で知ったのですが、このツールド103では、「暗黙の了解」として、速度の速い参加者順にグループ出走するようで、後になればなるほど巡航速度は遅くなるようです。つまり、当方はわりと早めのグループでスタートしてしまったので、実力よりも速い速度での走行となってしまったのでした。

いよいよ最後の難所④に取り付き、時速は3km/h台まで落ちながらも、急勾配を必死に登り切りました。ここをクリアすると、残りは約27kmです。ついに雨がぽつぽつ降り出しましたが、この段階では体の冷却にはちょうどよいという感じでした。これが津田に到着した頃には土砂降りになり、体も寒いぐらいに冷えていき、ブレーキが利きづらく、視界も利かない中、必死にゴールを目指すのみです。

ようやく第5エイドステーション(大川オアシス)に到着し、残るは約10km、ここを出る頃には天候が回復し、薄日が射してきました。そして、きっちり103kmのゴールゲートを歓喜でくぐりました。休憩を除く実走行時間は5時間35分でした。
この完走により、現時点での自分が100kmを走れることを確認でき、今後の展開にそこそこ自信が持てるようになりました。160kmを8時間以内に走れるようになれば、「センチュリーラン」に挑戦できるようになりますが、なんとかそこまで行けるようになりたいものですね。ツールド103にも多数出場していた同年代の男女を見習って、生涯スポーツに大いに精進していかねば、ですね。

正岡 利朗

掲載日:2023.07.21

スポーツがうまれるとき

スポーツがいつ誕生するのか、みなさんは考えたことがあるだろうか。いまや我々の生きる社会にたくさんのスポーツが存在することは自明であるが、それらのスポーツが誕生した瞬間を詳らかにするのは容易ではない。今回はラグビーを例に挙げ「スポーツはいつ誕生するのか」という問いに迫ってみたい。

ラグビーはいつどこでどうやって誕生したのか?これは意外と有名な話なので、もしかすると既知の人もいるかもしれない。おそらくそれは、19世紀はじめのイギリスで、パブリックスクールの一つであるラグビー校に通うウィリアム・ウェッブ・エリスという少年が、フットボールの試合中にルールを無視してボールを手で持って走り出したことが始まりである、という説のことではないだろうか。たしかにラグビーW杯の優勝国にウェッブ・エリスカップという名のトロフィーが授与されることや、日本ラグビーフットボール協会のホームページに、ラグビーの起源としてエリス少年が「フットボールの試合中に手でボールを持って走り出した」と記載されていることなどからも、この説が定説として広く認知されていることがわかる(※1)。とするならば、「ラグビーが誕生した瞬間」とは、「エリス少年がボールを抱えて走り出した瞬間」となるのだろうか。否、それはいささか早計である。

この「エリス少年がボールを抱えて走り出した」という話は、エリス少年と同時期にラグビー校に通っていたブロクサムという卒業生が1880年、ラグビー校の校友会誌『Meteor』にその内容を投稿した際に初めて世に出たとされている(※2)。しかし、実はブロクサムがラグビー校を卒業したのが1821年、エリス少年がボールを抱えて走ったのは1823年であることから、ブロクサムはどうやら別の卒業生に確認した程度の根拠しか持ち合わせずに例の説を寄稿したようである。また、投稿されたのが卒業して50年以上経過してからであったことも、その説の信憑性の低さに拍車をかけている。

スポーツ史という学問分野では、この定説をウィリアム・ウェッブ・エリス神話として批判的に検討する試みがなされている。ラグビー競技はラグビー校で発達したこと、エリス少年がラグビー校に在籍していたこと、これらは事実であるとしながらも、エリス少年がボールを抱えて走り出したこと、このことが事実である証拠はないと主張する研究者も存在する(※3)。それにもかかわらず、ウィリアム・ウェッブ・エリス神話が定説化されたのは、ラグビー校が他校に対して学校の威信を誇示するためであったとされており、その証左にラグビー校にはエリス少年がボールを抱えて走り出す様子の銅像と記念碑が立てられている。(「エリス少年 記念碑」で検索)

これらを踏まえて、「ラグビーはいつ誕生したのか」という問いには「よくわからない」と答えるのが誠実であろうか。明確な解答を期待していたみなさんには、申し訳なさしか残らない結果になってしまった。しかしながら、ラグビーに限らず、いまや身のまわりに当たり前のように存在しているスポーツも、どこかで誰かが生み出したものであるはずにもかかわらず、その起源を探ってみると実はよくわかっていないことが多かったりする。スポーツの起源を知れば、より深くスポーツの楽しさを味わえるのではと考えてはいるが、世の中に無数にあるスポーツの起源を詳細に把握することは困難を極める。少なくとも、自分が経験したことのあるスポーツの起源くらいは饒舌に語りたいものである(なおラグビーは未経験)が、スポーツの歴史は奥が深い。そうであれば視点を変えて、自分が新しいスポーツを創ってしまえばよいのではないか、とも思う。自分自身がスポーツを創り出せば、スポーツがうまれる瞬間を目の当たりにすることができるからだ。全人類にラグビーのように世界的に有名なスポーツを創り出すチャンスが存在しているわけであり、何も今あるスポーツを楽しむことだけにとどまる必要はない。

さて、「ONE TEAM」を合言葉に日本代表(ブレイブ・ブロッサムズ)が初のベスト8進出を果たすなど、日本でラグビーW杯が開催された2019年大会から早いもので4年が経過した。「闘球」と称されるラグビーでは、筋骨隆々とした選手たちが楕円形のボールを抱えながら突進し、それを阻止しようと果敢にタックルを決める。あるときはタックルをものともせず、あるいは華麗にかわした末に、トライを決める。そんな光景はまさに「闘う球技」であり、ラグビー選手の闘う姿に魅了された人も多いかと思う。そのラグビーW杯が2023年9月からフランスで開催される。ちょうど200年前には「エリス少年がボールを抱えて走った」とされる、記念すべき年である。出自は不明確であっても長きにわたって人々にプレイされ、観戦されるラグビーというスポーツの魅力を、その目でぜひ確かめてほしい。

※1 日本ラグビーフットボール協会のホームページには「これには諸説あると言われている。」と記載されており、断定的に書かれているわけではないことに留意されたい。〈https://adeac.jp/jrfu/timeline/tm000010〉(最終閲覧:2023年7月7日)
※2 阿部生雄「ウィリアム・ウェッブ・エリス神話と『ラグビー・フットボールの起源』(1987)」『筑波大学体育科学系紀要』30:13-23.2007年 を参照。
※3  Vamplew, Wray.Games People Played A Global History of Sport,London,Reaktion Books: 2021.レイ・ヴァンプルー、角敦子訳『スポーツの歴史 その成り立ちから文化・社会・政治・ビジネスまで』原書房,2022年 を参照。

奥田 直希

掲載日:2023.07.14

中国の大学生とオンラインで交流

6月14日(水)、中国・西安外事学院の学生達とオンラインで交流しました。
西安外事学院は本学の学術交流協定校で、今年は協定締結20周年の記念の年です。3月には、西安外事学院から黄藤理事長はじめ9名の先生方が来学し、今後の協力プログラム等について話し合いました。
6月には本学側が西安外事学院を訪問する予定でしたが、ビザが間に合わず、急遽Zoomを使ってのオンラインに切り替えました。
西安に行けなかったのは残念でしたが、「それならば、オンラインでしかできないことをやろう」と、学生のオンライン交流会を実施しました。初めての試みなので、うまく繋がるか心配でしたが、映像も音声も鮮明で、2時間あまりのオンライン交流ができました。
前半は、私がpptを使って、20年の交流の歴史を振り返りながら高松大学の紹介をしました。後半は、藤原ゼミの学生(日本人3名、中国人留学生3名)と西安外事学院の日本語学科の学生約30名が、お互いにいろいろな質問をして交流しました。
最初は留学生活に関する質問(アルバイトや奨学金のことなど)でしたが、徐々に日本人学生とアニメやゲームの話で盛り上がりました。
「日本の音楽は聴きますか?」という質問に、「YOASOBIの曲をよく聴く」という答えが返ってきて、「わぁー、YOASOBI知ってるんだぁ!」と本学側から驚きの声。アニメは「すずめの戸締まり」や「鬼滅の刃」「SLAMDUNK」など、最新の人気作の名前が挙がりました。インターネットで見ているとのこと。
「どんなゲームをしますか?」という本学側からの質問に、「原神!」という答え。すると、またまた日本人学生が、「あぁ、知ってる知ってる。いまメッチャ流行ってるんだよね」。
私が不思議そうな顔をしていると、中国人留学生が「中国のゲームで、いま世界中で流行ってるんですよ」と教えてくれました。もう、おばさんにはついていけない世界です。
今回、2000㎞以上も離れた相手と顔を見ながら話ができ、インターネットで世界中がリアルタイムで繋がっていることを実感しました。ITオンチの私ですが、これをきっかけに、海外協定校とのオンライン交流会やオンライン会議を増やしていきたいと思います。

稲井富赴代

掲載日:2023.07.07

大雨の影響

梅雨空とじめじめとした暑さが続いていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

6月2日(金)の大雨では、大学は休校になりました。高松大学では、高松市に大雨警報や暴風警報などの警報が午前6時に発表されている場合、又は午前6時から午前9時までの間に発表された場合は、午前中の授業が休講になります。今回の警報発表は6時33分だったので、遠くから通学している学生のなかには、途中で警報発表に気が付いて引き返した人もいたかもしれません。

さて、休校ということで、当日の授業はすべてナシになったのですが、喜んでいる場合ではありません。決められた回数以上の授業を実施しなければならないため、足りない分の授業を土曜日などに補講として実施することになります。アルバイトなどの予定を入れている学生は、予定をキャンセルしなければならず、大変です。上手に補講の設定をしてくれる優しい先生だと良いですね。

浮穴 学慈

掲載日:2023.06.16

現場と脳感覚

僕のゼミに所属する学生の一人が、卒業論文のテーマとして出身地に近い地域の活性化を検討したいとのことである。この学生は、香川県の西のほうの出身で、検討したい地域は地図上では県境に近い、かなりの山奥である。
僕は当該エリアの近辺まではドライブで行ったことはあるので、対象地域に関してなんとなくのイメージはあった。しかし卒業論文の作成過程においてきちんと検討していくためには現場を見る必要があると思い、実際に行ってみることにした。

自分が持っているイメージや地図から想像するに、対象地域は山ばかりだと思っていた。車で走ってみると、もちろん谷間の集落ではあるものの、意外な光景を目にする。かなり平地があり、田んぼが目に付く。少々有名なお寺があり、そこの駐車場に車を止めて外に出たところ、空気もさわやか。道も急な坂はほとんどなく、かなり緩やか。歩いても快適である。小川もあり、学生が言うには、夏は蛍も楽しめるらしい。それはそうだろうなと思う。なにせ水を汚すような要素は何もないのだから。
山は緑深く、立派に木が育っている。学生は林業を起点に活性化できないかと考えているのだが、それも含めて、やはり実際に現場を見ると、活性化に向けたアイデアが出てくる。それが実効性のあるものなのかどうかはもちろん今後の検証が必要である。

地方の田舎町が活性化した例としては徳島県の神山町がよく取り上げられる。この町は全域に光ファイバーが敷設され、東京から国の出先機関がきたり、最近ではアントレプレナーの育成を目指す学校が開学するなど、何かと注目を浴びている。そこで、高松からもそれほど遠くないので、参考になるアイデアが浮かぶのではないかと思い行ってみた。
意外な光景を目にする。神山町は思っている以上に都会だった。道の駅には県外ナンバーの車が何台も駐車している。平屋ではない鉄筋コンクリート造りの建物もある。お店もある。都会にあるエンターテイメント系のものは見かけなかったが、少なくとも日常生活を送る分には困らない基盤が整っているようである。昔はいわゆる“限界集落”だったのかもしれないが、もうすでにいろいろと人の手が入っているのだろう。

言い尽くされてはいるが、百聞は一見に如かず。現場を見ることの大事さ、それを改めて痛感する。現場を目で見て、脳で感じる・イメージすることがある。「肌感覚」ならぬ「脳感覚」と言うものだろうか。もちろん、そこには何らかの問題意識や、ものを見る視点があるからこそ感じるものがでてくるのであって、漠然と見るだけでは何も感じないし、脳で何かイメージが形成されることもないだろう。
この、現場を見て、そこから何かを感じ、イメージが具象化・焦点化されていく感覚は、人間だからこそのなせる業であり、今はやりのAIやChatGPTでは難しいのではないだろうか。AIなどは「百聞」どころではなく、膨大な量の情報を「聞いている」のだが、人間の「一見」がもたらすこの感覚を持つことはない。そもそも感覚を持たないので当たり前か・・・。

それにしても、神山町に行くときに通った国道193号線は、聞いてはいたものの、実際に車で走ってみると、運転の下手な筆者にとっては相当のスリルを感じさせる国道だった。対向車が来ないことを祈るばかりであったが、日頃の行いが良かったのか(?)、対向車が来たのは1回だけであった。僕は神山町方面に行ったので途中で国道439号線に入ったが、さらに南のほうに行く193号線はもっと「酷道」なのかもしれないなぁ・・・。と、ここでうだうだと書いても仕方がない。これも実際に現場を見れば済む話である。

藤原 泰輔

掲載日:2023.06.09