唐揚げ定食特盛り

ものぐさ者の一人暮らしが直面する問題の一つに食事がある。自炊は面倒だが「カップ麺ばかり食べてたやつが栄養失調で倒れた」などと聞くと、食は大切!と再認識。
学生時代、夜ご飯に通っていた食堂はアパートから10分ほど歩いた場所。一度に50人は食事ができる程の広さだが、お世辞にも「きれい」とは言えない。でもバランスのとれた美味しい食事が500円でおつりがくる値段で腹一杯食べられるのはとてもありがたかった。
銭湯の番台よろしく入口におばちゃんがデンと陣取っている。客は油でギトギトになった壁に貼られたメニューから食べたい料理を伝えお金を払う。で、聞かれるのが名前。おばちゃんは昔の潜水艦にあった伝声管のような通話器で料理名と注文した人の名前を厨房に叫ぶ。料理が出来上がると店員さんがお皿やどんぶりが乗ったお盆をかざし、注文した人の名前をこれまた叫びながら厨房から飛び出してくる。「唐揚げ定食特盛りの ひらはたさん!どこですか~!」っていう具合。黙って座っていると料理が配膳されるという固定観念はこのお店では捨てなければならず、客は自分の名前がいつ呼ばれてもいいように耳をそばだてている必要がある。聞き逃すと同姓で後から同じものを注文した人のところに料理が回ったり、店員さんに「何度も呼ばせんといて!」と怒られたりする。さぬきうどんのお店同様一見さんが途方に暮れてしまう独特なスタイルだが、この緊張感がたまらない。
私の名前(名字)は平畑。でも初対面で「ひらはた」と呼ばれた記憶がない。ひらばたけ、ひろはた等々。さらに私の滑舌が良くないこともあり「ひらはた、です」とゆっくり言っても通じないことが何度も。このお店でもレジのおばちゃんは「エッ?」と聞き返すか「ひらさかさん唐揚げ定食特盛り!」などと平気で伝声管に叫ぶ始末。毎回訂正したり説明したりすることに疲れた私は一計を案じ、このお店にいる間は「おおば」さんになることとした。佐藤や鈴木、高橋という全国ランキングの上位にある名字だとあちらこちらから「こっちこっち」の声が飛び交う争奪戦に巻き込まれる危険性が増し、気の弱い私はいつまでたっても唐揚げにありつけないという羽目に陥ってしまう。でも、あまり聞かない「おおば」さんなら巻き込まれることもなく且つ発音しやすい。何しろ久美子ちゃんの名字だし (^_^; 。
そんなある日、「唐揚げ定食特盛りの、おおばさ~ん!」という声に「ほーい!」と返事をして驚いた。料理を運んできた店員さんが何と去年まで予備校で机を並べていた友人だった。「お前、いつから おおば やねん !?」と毒づき通り過ぎようとするのを捕まえて無事唐揚げ定食特盛りにありつき、彼のバイトが跳ねるのを待って居酒屋さんへ。京都出身の彼。私とは別の大学に通っているもののアパートが近所ということも分かり、安酒で大盛り上がり。
「そうそう、おおばって何や?」お互いの近況報告が終わった頃に彼が放った質問。酔っ払って据わった目がキラリと光ったような気がしたが、私も同じ状態なので頓着せず「コメットさん知らない?可愛いアイドルがいるじゃないの…」とひとしきり講釈し顛末も説明。「ふーん。でもなあ、本名を名乗りたくても名乗れない人もいてるんやで」と彼。危うく聞き逃すところだったこの発言の意味を私が理解するにはまだ瓶ビール2本が必要で、酔い覚めた私は本名で生活できる環境が「こんなにもありがたいものか」と感謝するように。
教壇に立って困ることの一つはキラキラネーム。読めない。でも父親や母親は彼、彼女の未来を考えに考えての命名。文句を言う前に寄り添おう。そして本名では生き辛い世界があることを知り、そんな世界がなくなるために何ができるのか考え行動しよう。

平畑 博人