“Fun to drive”考

最近、ときどき一人でドライブを楽しんでいる。高松から車で3時間程度で行くことができる地方都市や小さな町に行くことが多い。高速道路も含め自動車専用道がかなり整備されているので非常に便利だし、高速道路を運転していていろいろな体験ができることもおもしろい。
高速道路で後ろからガンガン攻めてくる車。だいたい車種が決まっている。走行車線と追越車線を行ったり来たり。もちろん、追越車線をずっと走るのは違反なので、そういう運転になるのだが、後ろから見ていると車がダンスでもしているようにも思える。運転している人はどんな人なのだろうか。何かそんなに急ぐ事情があるのだろうか。特に、地方によくある片側1車線の高速道路を法定速度で走っていると、「早くいけ」と言わんばかりに、後ろにピタッと張り付いてくる人がいる。スピードを出したい人からすると、法定速度で走っている人は邪魔だろう。僕は性格が素直ではないので、そういう時はブレーキを踏みたくなる。ただ、事故につながりかねないので、現実的にはさすがに思いとどまる。世の中、いろいろなドライバーがいるので、「お互いに」こういうイライラ感は仕方がない。
なんとなく車が込み合ってきたなぁと思ったら、路肩に警察車両が止まっていることがある。そういう時、なぜかみんな走行車線を走る。80キロでスピードメーターが微動だにしない。しばらくするとまた「各自のペース」に戻っていく。みんな、警察がいると素直である。ときどき、スピード違反で捕まっている車を見かける。スピードを出しすぎているのはその車だけではないのだが、違反者すべてを同時に検挙するのは不可能である。捕まった人は運が悪いとしか言いようがない。そのスピード違反について、特定のセダンを見かけると、どうしてもアクセルを踏み込むのを躊躇してしまう。しばらく後ろについて様子見。その車が法定速度を超えて、走っていくのを見ると、あぁ、覆面車じゃなかったと思い、ほんの少し自分の右足に力が入る。こういう警察絡みのドキドキ感も運転の楽しみの一つである。
先日、高速道路を運転していた時のこと。車線のど真ん中に結構大きな落下物があり、あわててハンドルを切る。確かに、その場所のかなり手前の表示板に「落下物あり」と示されていたが、しばらく走っていても遭遇しなかったので、「ないのかな」と安心したとたんの出来事。横や後ろに車が走っていなかったので大事にはならなかったが、こういうヒヤヒヤ感はあまり味わいたくない。
僕が乗っている車は電気でもなくハイブリッドでもなく純粋なガソリン車。オートマではなくマニュアル車。カーナビもなし、カーオーディオもなし、ましてやオートクルーズもない。ないモノ尽くしで、全く走ることだけに徹した車。時代の最先端が完全自動運転の実現にあることを考えると、僕の車はいわば絶滅危惧種。
でも完全自動運転のFun to driveってなんだろう?運転が楽しいのは、想定外のことが発生したり、ドライバーの運転の仕方が多様で、刻一刻と状況が変わるからこそ楽しい。煽り運転は正当化できるものではないものの、非常に良い方向に解釈するとそのドライバーの内なる感情を表したメッセージである。要するに、車の運転そのものに加えて、車を介した「自分以外」との相互作用がFun to driveなのではないか。自分の指や足の動きが車に伝わる、あの感覚。自分が車をコントロールしている、あの何とも言えない感覚。そして、他者との相互作用が生み出す、運転中の「イライラ感」「ドキドキ感」「ヒヤヒヤ感」。
完全自動運転は、運転からヒューマンファクターを除外した、いわば「想定内の枠組み」の中での運転である。そこから人は「楽しみ」を感じるのだろうか。将来的に、車は楽しむものではなく、本当に単なる移動手段・道具になってしまうのか。
と、ここまで書いて、ふと、別の自分が語り掛けてくる。こういう考え方は時代とマッチしていない古臭い考え方だよ、と。人間は、おそらく、完全自動運転ならではの、別の「Fun to drive」を生み出す、そう考えるべきだよ、と。こういう「昔は良かったなぁ」てきな懐古主義的な考えではなく、前を向いたプロスペクティブな考えをしないといけないですね。

藤原泰輔