「わかる」とはどういうことか

33年ぶりの高松である。生まれてから高校までは高松で育ち、大学から東京に行き、今年の3月まで働いていた。人生の6割強を東京で過ごしたこともあり、久しぶりの高松をどうしても東京の尺度でみてしまう自分がいて面白い。
例えば電車に乗るときにふと感じたことが、東京では土日と平日で時刻表が異なるが高松では同じであること。高松では時刻表を変える必要がないので当たり前と言えばそれまでだが、東京の状況に慣れている自分からすると「あぁ、そうか」という感じがする。その電車も東京は3分待てば次の電車が来るが高松は30分待たないと来ない(少し大げさか?)。東京はコンビニには歩いていくが高松では車で行く(少し言いすぎか?)。東京では車が歩行者に気を遣うが、高松では歩行者が車に気を遣う(これは実感)。
他方、高松に来て「これは東京を圧倒しているな」と感じたことは、やはり食べ物のおいしさである。魚はもちろんであるが、肉も野菜も段違いのレベル(うどんについては書くまでもない)。東京もお金を出せばおいしいモノに出会えるのだろうが、それだと日常性はなく、今どきの言葉で表現するのであれば“サステイナブル”ではない。また身近に自然を感じることができることも違いの一つだろう。草が香る、花が咲く、虫が飛ぶ、近くには海、すこし遠くには山の稜線が見える。文字通り「山河あり、草木深し」という、いくらお金を出しても買うことのできない状況が目の前にある。それが人間の精神や身体に良い効果をもたらすことは容易に理解できることである。
このような体験から私が感じたことは、どちらが良くてどちらが悪いということではない。むしろ、違いがわかるとはどういうことなのか、対象を本当に理解すること・感じることとはどういうことなのか、である。東京にも高松にも(自分の価値基準に照らし合わせて)良いところはあるし悪いところもある。どちらかを受け入れどちらかを排除するということではなく、両者の良いところをきちんと理解する・感じることが大切なのではないだろうか。東京に住んでいたからこそ高松に再び住んで両者の違い(つまり東京の良し悪し、高松の良し悪し)をより深く感じることができたのだろう。
このように考えると、原体験を持つことで身体感覚を養い、比較の対象を持つことで違いを理解する脳を持つことが大事なように思われる。たとえば、今、自分を取り巻く社会や組織に関しては、一時的にでも他の社会や組織に身を置くことで理解が深まるだろう。日本の良さを理解するためには、日本とは異なる国や地域で何らかの体験をするのが良いだろう。これまでの人生の軌跡とは全く異なるトラックを歩むことにチャレンジすることは過去の自分の再評価を促し、未来の自分への糧となるだろう。
振り返ると、小さい頃は高松の良さを感じていたわけではなく、むしろ親には「(高松を)早く出たい」と高松に対して否定的なことを言っていた。今は、高松の良さを少しはわかるようになったかな。(藤原泰輔)