変節点に来たか上海経済

上海に行くと、定点観測というほどではないが、外灘から揚子江対岸の東方明珠テレビ塔から森ビルが建設した上海環球中心ビルあたりの写真を撮っている。「外灘」という名称は、「外国人の河岸」という意味だそうで英語名では「バンド」である。かつての大英帝国植民地の各地にバンドと呼ばれる堤防や埠頭があったが、固有名詞として単に「The Bund」と言った場合には、上海のバンドを指すそうである。
上海の旧市街の北にあるバンドは英国が租界として作り始めた。その後1854年に英国・米国の両租界が合同して共同租界となった。この租界になったのをきっかけに貿易の一大拠点となった。そして、バンドに建築ラッシュが訪れイギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・日本・オランダといった各国の銀行や新聞社、イギリスやロシアの領事館などが造られた。現在でも当時の建物が数多く残っている。
私がバンドを始めて訪れたのは、1990年代ですでに公園というよりも揚子江護岸の幅を広くした散歩道という風情であった。その後、この散歩道は行くたびに揚子江に沿って長くなっている。そのせいもあり、上海で私が一番最初に取った東方明珠の写真はどのあたりから取ったのかはっきりしない。とにかく当時は東方明珠タワー以外には大きなビルはほとんど無かった。その頃より上海市政府は東方明珠タワー近隣を世界的な金融センターにするという方針のもと、各種の施策を講じた。その一部が高さ300mとかのビル群建設である。
今回取った写真を見てほしい。左が東方明珠タワーで、右の2番目に高いビルが上海環球中心ビルである。2年前の写真と見比べると、左の1番高い建築中ビルが加わっているくらいで、ここ10数年間の高層ビル建設ラッシュは一段落したようだ。この写真を撮り終え、南京(東?)路を人民広場まで歩くことにする。お正月の4日なのでまっすぐ歩くのが困難なのではとの予想はすぐに外れた。外灘の周辺こそ車道が広いので、歩道は人で混んでいた。しかし、日本の歩行者天国のように車道がないエリアに来ると、数年前の数分の1の人出である。上海は家賃が高く建設ラッシュが一段落した今出稼ぎ労働者は少ないと思うが、彼らがお正月で故郷に帰ったせいかもしれない。しばらく歩いていたが、ショッピングモールの写真も授業で使っているのでと思い、中級のモールに入りびっくりした。
このモールは写真のように3階から上の階にはお店が入っていない。賑やかそうにピンクの絵が描かれているだけである。これでは日本なら大家さんは倒産だ。ここ何年間かの蓄積があるのか、何とか経営できているようだ。また、別のモールではプラダ・グッチ・スワロフスキー等の化粧品を売っている。ただし、安価な商品を売っているモールは客が多くは無いものの空き店舗は無かった。どうも中流クラスの収入は最低賃金との差がなくなり、生活防衛に入っているようだ。静安寺でお金持ち相手の久光百貨店に入った。この久光百貨店は日本そごうのフランチャイジーであり、お金持ち相手の上質な商品が並んでいる。特徴がわかりやすい食品売り場へ行く。インスタントラーメンは袋物・カップめんともに100円余りで売られている。また、2kgが2000円の日本米が売られていたり、1個が3000円とか7500円のリンゴもたくさん売られており、富裕層の購買意欲は相変わらず高そうである。
今回の訪問で感じたことは、上海ではホワイトカラーが働くビル建設は一段落し、購買力の拡大もピークを過ぎたようだ。(丸山 豊史)
備考:一部の文章はウィキペディアより引用した。