感染症対策と栗林公園 

毎回、このブログの順番が廻ってくると何を書こうかと迷ってしまう。個人のブログではないので、あまり個人的なものは書けないし、最後はどうしても半ば公的なものなので、教育・研究・地域貢献など大学教員の仕事に関連した内容になってしまう。
今回は、現下のコロナ感染症に関連して、江戸時代の感染症対策と回遊式大名庭園として世界的に有名な栗林公園との関係について書いてみる。日本では感染症のことを疫病と呼んでいた。今から300年前も、現在と同じように疫病発生の一つのピークを迎えていた。時は8代将軍徳川吉宗の享保の改革期で、日本の歴史上における一大疫病流行期(1701~1750)でもあった。宝永5、6年(1708、09)の麻疹・痘瘡の流行時には5代将軍徳川綱吉や東山上皇がなくなり、吉宗が将軍になった享保元年(1716)には「一箇月の中に江武の町々にて死するもの八万余人に及び、棺をこしらゆる家にても間に合わず」(『正徳享保間実録』)という惨憺たる状況が続いていた。高松藩でも享保8年(1723)には死者数が1000人に達していた(『増補高松藩記』)。こうした疫病流行という社会不安は、個別領主(藩主)の個々の対応によって解決できるようなものではないため、幕府の強力な指導のもとで、個別領主を越えた統一的な政策の展開が必要とされた。そこで幕府は、全国的な薬草見分や薬園の整備拡充などの薬草政策を全国的に実施するとともに、御救米の支給や小石川養生所での無料診療の開始などの生活支援策を行った。享保13年(1728)に植村政勝・松井重康が薬草見分者として讃岐・小豆島にやってきたのを契機に、高松藩でも、平賀源内が中心となって領内の薬草調査を行い、その結果を宝暦13年に『物類品隲』(6巻)にまとめている。また、延享3年に石清尾塔山の南麓に置かれていた高松藩の薬園を、寛延元年(1748)頃から栗林荘(現栗林公園)の梅木原に移して池田玄丈がその薬園の頭取となり、和人参の栽培を行っている。このように享保の改革期の薬草政策は、支配体制の動揺にもつながる疫病流行という社会不安の進行に対して、近世社会全体の共同利害の調停者である公儀権力(幕府)が行った国家的対応であり、幕藩体制強化策の一つであったといえる。
現在においてもコロナ感染症対策を通じて、中央政府は来たるべきアフターコロナ社会を見通した「令和の改革」を実行しつつあるといえる。それがどういう社会なのか、私たちはしっかりと見極めて行かなければならない。

溝渕利博